ごきげんよう
今回は、海外の建造物に落書きしたという事件が久しぶりに起きたので思ったことを書いておく。
1. 思い出すのは京都の竹林の道
「落書き」と聞いて思い出すのは京都の竹林の道だ。
竹林の道で観光客らしき名前が彫られた竹がいくつもある。
道に近いところが狙われやすい。
竹の成長の速さを考えれば文字を書かれても竹が枯れればいつか消えてしまう。
書いたという事実だけが本人に残るのだ。
油まき事件というのが少し前にあった気がする。
寺社の場合、管理している方々が見ているのでそうそう起きにくいと思われる。
2. 落書きとは何を残すのか
さて、何故人は訪れた記念や生きた証を観光地の建造物に残して語ろうとするのだろうか。
落書きをした人はその建造物に対して何を成し遂げたというのだろうか?
その建物を作った、石垣を作ったなら職人の名前が刻まれているのはおかしいことではない。
それは自分の作品なのだから何処かに自らが作ったという印を残す事も許されるだろう。
これは、後世の我々がお金を払って建造物を見たときに落書きするのとは全く異なる。
ただ、金を払って見ているだけの我々には印を残す権利など最初から存在しないのだ。
ただの落書きになり、問題になるだけだ。
観光地の建造物に落書き(名前等の文字列)を残すのは自分の存在を認めてほしい、ここに確かに自分が存在した証を残したいというものかと思う。
承認欲求というものに近いのだろうか。
ただ、自分たちより更に後世の人々が見たときにどう思うだろうか。
多くは同じ人間として恥ずかしいと思うだろう。
何故なら美しい建造物が後の人々によってけがされていくのは気持ちの良いものではない。
今日行った自分中心の行いは、ただの程度の低い自己満足としてずっと後世に残るのだ。
これをやったら、今後どうなるかを少しは考えてみたほうが良い。
因みに、観光地の建造物に落書きをしたあと、再びその落書きを見るために訪れる人間はどのくらい居るのだろうか。
刹那的な充実を求めていては真の幸福は得られないということだ。
3. 最後に
今回は、海外の建造物に落書きしたという事件が久しぶりに起きたので思ったことを書いてみた。
やはり、京都という歴史ある地域に住んでいるからこそ本件は考えざるを得ない。
そういえばこういう事は定期的に忘れた頃に行われている気がする。
学習能力が無いのだろうか。
それともこれが教育の限界なのだろうか。
今後同様の事が起きないよう願いつつこの話を終わらせたい。
それでは ごきげんよう